
知人の1人が、千住地域での空き家再生10棟突破を記念して「お祝いの会はどうか」と言ってくれた。
ありがたいが、もうお腹はいっぱい、コロナ渦でなくても、そんな気にはまったくならない。
空き家再生の内実をご存知ない人は、10棟を超えてすごいと思ったり、また一方、たかだか10棟だろう、と小バカにしたりするだろうけれども、やっている本人(筆者)の思いはまったく別のところにある。
いずれは88ヵ所を再生すると公言しているけれども、それも筆者の誇大妄想大言壮語の一種で、若手が継ぎ、そうなればなったで、ならなければならないで、畢竟どちらでもいいのだ。
それよりも目の前の縁ある1棟を再生させること。
それが成れば次の1棟を再生させる。
で、1年に1棟もかなわない。
やってることは原則これだけのことなのだが、現実は更に厳しい。
再生された空き家も、いつ何どき、取り壊されてマンションに建て替わるかも知れない。
いつ何どき、駐車場に姿を変える事態が起きないとも限らない。
増減不知。それが空き家の現実だ。
空き家の再生の棟数に対して、すごいとか、たいしたことないとか、他人様はそういう評価をし、まれには誉められ、ほとんど黙殺されるだろうけれども、筆者には事実以外どうでもいい話である。
縁あって13年前に歩きはじめた故郷千住の空き家めぐり。
1棟目から2棟目、次の1棟、また次の1棟と目の前の1棟だけの再生を心がけてきた。
現在11棟目のリノベーションを東京芸大建築科の学生M君と進めているところだが、今も昔も、その時々に蘇る空き家を仰ぎ見て思うのは、状況への「祝い」や「喜び」ではなく、大家さんに対する「感謝」の気持ちである。
なぜなら、空き家再生において筆者の役回りは黒子以外なにものでもなく、すべては大家さんの理解と厚意の賜だからである。
芸術村が関わる空き家は不動産市場にのっていない物件ばかりだ。
もともと貸す気のなかった大家さんのお気持ちの前向きな変化。
ここが空き家再生が成るか成らぬかの運命の分かれ道にほかならない。
きれいごとに聞こえるかも知れないが、もし芸術村の空き家再生10棟越えが正当に評価されるとすれば、それは芸術村を信じて任せてくださった大家さんのおかげである。
まだ見ぬ88棟目は雲かかる遥か彼方の山の頂上にあるだろう。
筆者にはちと高すぎる山だが、じつはそれどころではない。
途中で野垂れ死ぬに決まっていると心配してもはじまらない。
そんな先のことより目の前の空き家1棟の再生。
いつも目の前の空き家で精一杯なのだ。
いま11棟目リノベーション真っ盛りだが、使えるトイレがなければオシッコもうんこもできない。
コロナより前に命にかかわる。
運と根。
即断即行そして感謝。
わが空き家再生の秘ケツである。
(写真は芸大生M君DIYによる新品便器の設置風景)
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