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執筆者の写真加賀山 耕一

【18】なぜ参政党は危険なのか?




参院選(二〇二二年夏)の百七十万票を見返すにつけ、たくまれた演説に酔い、発する言葉そのままを信じてしまった参政劇場初演は、教祖や幹部連中の思う壺に違いなく、これがヒトラーの手口の真似ごとで、いずれは国ごと乗っ取ろうとのご立派な画策なら、いまの時代、遅かれ早かれ墓穴を掘るだろう。


参政党が厄介なのは、そんな身の程知らずの大目的達成のための独裁などではなく、じつは風当たりの強いネットワークビジネスやマルチ詐欺を、いかに効率よく継続できるかを心底願う面々が達した結論が、「政党」を隠れ蓑にするビジネスモデルだったということだ。


もちろん幹部たる彼または彼女らは、演説パフォーマンスを重ねるうちに、自分たちが語る空論について、一般人よりは知識は貯まったであろうが、そもそも日本がどうだとか、政治がどうだとかは本質的な問題ではなく、世間さまに受けのいい理念を作文し、それらしく見える演出だけが重要なのであろう。


そうした大芝居にコロリと騙され、一票を投じたくらいならまだしも、勢い党員となった者のうち、前述したカラクリに気づいた賢者らは早々に辞め、たとえ今は気づかぬにしても将来「おかしいじゃないか」と声を挙げそうな者らは、なにかといちゃもんをつけて離党へと追い込み、従順な信者だけを残す手口を垣間見るに、まさしくカルトの組織運営そのものと言っても過言ではない。


選挙を通じた組織拡大策は、政党としての基盤を広げるというより、信者にそれなりの役割を与える場作りであり、信者からお布施の代わりに党費を集める口実であり、政敵を提示し一層団結させる格好の舞台であり、やわい信者をベテラン信者に育てる都合のいい公的イベントと言ってもよかろう。


したがって国からも億単位の政党交付金(2024年は一億八千九百万円)が入り、党費がサブスクのごとく振り込まれてくる仕組みさえ出来れば、教祖一人が国会議員であればよく、教祖一人を求心力として固まり、小ぶりながら揺るぎない組織を差配する権力と、生け簀不倫し放題という鉄壁の閉鎖組織が完成したという訳である。


ちょっと調べればボード幹部と某カルト教団とのつながりは明白ながら、いったん党員となり信者となった者たちの目には入らず、見ても見ぬふり。マルチやネットワークビジネスに手を染めていた経歴があろうと声も出さず、残った党員らは選挙運動に駆り出されては台本通りの奇声を上げるばかり。


宗教団体との関係が密なる公明党という国政政党もあるにはあるが、あくまでも政教分離の別組織である。いっぽう参政党は「政党」まるごとを宗教教団もどきに組織化し、情報を統制し、嵌まる党員を洗脳しながら信者に仕立てあげる斬新きわまりない手口を着々と実行しているとすれば始末がわるい。


宗教団体が先にあって、その後に政党を作るのではなく、今日の日本を憂い意を決して政治に参加しようという純真な国民を、党首に従順な信者にする策略をもってすれば、宗教にアレルギーのある人でも容易に騙され、その自覚もなく政党信者になってしまうのである。


いったん信者となった者たちは、ご多分に漏れず、いくら「騙されてますよ」と忠告しても、もはや聞く耳はない。公党、国政政党という錦の御旗をかかげる本部事務局の、それなりの方針表明や檄文ほか演説やパフォーマンスに「絶対的正義」を見、ついに我が神のみ尊し、批判する者たちをグローバリストの手先と見なして敵愾心をふくらませ、ますます団結は強まるのだ。


確信犯たる幹部にとっての「選挙」は、教団のPRの手段であり、もっともらしい公約によって悪業を隠せる一大イベントであり、地方議員も彼らの先兵に過ぎず、教祖ならびに取巻の金集めの、揺るぎないネットワーク作りに貢献できればそれでいい、くらいの扱いではないか。


「理念は素晴らしいので、今後よくなっていく可能性にかけて党員を続ける」などといった悠長な考えは、幼稚と言うほかはなく、教祖取巻幹部らの思う壺と言うほかはない。


我々日本人は、令和の御代に前代未聞の、恐るべき国政カルト政党を誕生させてしまったのかも知れない。


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kindle版『参政党奇談』より抜粋

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